小さな小屋の底辺小屋付き

小屋の中の人の日常

自分の誕生日が大切な人の命日になった。

死ぬのだ。人は。

身近な人間、それもずっとお世話になってきた人が死に向かっている姿に直面して初めてわかった。

 

 

「お祖母ちゃん、今夜がヤマだって」

仕事で出られなかった留守電に母からのメッセージが残っていた。

母方の祖母があまり長くないだろうことは分かっていた。

今年、年明けまでもったことすら奇跡だと思っていた。

先日、有給をもらって帰ったときに反応すらままならない姿を見たとき、覚悟をした。

 

 

それもあって、昨日は急いで黒いスーツの準備をした。

伊勢丹の店員に無理を言って一日で仕上げてもらった。

会員カードを忘れていることに会計まで気づいていなくて特典が入らなかった。

 

 

そして、今日、連絡があった。

 

 

私が子供の頃は母方の祖母の方に入り浸っていた。

父方の方と母がうまくいっていなかった時期というのもあるし、母の仕事場もそこにはあったからだ。いつも相手をしてくれた。

 

私が家を追い出された時は、いつも祖母のところに向かった*1

何時だろうが迎え入れてくれた。

 

おとなになって苦しい時も助けてくれた。

お金がどうしてもかかるときには何故か準備してくれていたお金がでてきた。私は大学卒業後はフラフラしていたが、それを親が許容できるための間接的な支援をしてくれた。

 

私の記憶がない頃からずっと面倒を見てきてくれた人である。

 

だが、最後に会ったときに呼びかけの反応が弱いことで、私は声かけを強くはせず、手を握っているばかりだった。

これは、ここ数日強い後悔として常に首をもたげてくる。

 

 何とかまともになった姿を見せることが出来たことだけが救いだ。

 

 

くしくも、今日は私の誕生日である。

事実にしてはあまりにキマリすぎている。

今は、急いで帰省するための準備をしている。

*1:ろくでなしでもヤンキーでもないが、タイミングの悪さはピカイチで呼び出しやら連絡やらが親にしばしばいっていたし、それと関係なくとも親は厳しかった

提案することは必要ないのか。

先月、ある人と話したときに驚くことがあった。

その人はいわゆる企業に勤めている。それなりに大きいところで、私とは仕事における何もかもが違っている。

 

それでも仕事をするという点において当たり前なんじゃないかと思っていたことはある。

それがひっくり返ったので驚いたのだ。

 

 

私がいるところは小規模でやや特殊なので無目的の人間はまずいない。やりたいことがある人間が、やりたいことをするために集まっている。

だから日々の業務を改善するための、やりたいことをやるための提案はドンドンしていくし求められている。ぶっちゃけ、これは日々の業務についても強固なシステムが構築しきれていないという点はある。

おちんぎん以外恵まれた人間だから言えることなのだが*1、仕事はやりたいことをする手段の1つであり、だからよりよくしていくために提案はしていくものだと思っている。

 

 

だが、その人のところではそうではないらしい。もちろんそういうところがあることも分かってはいたが、その理由に驚いた。

 

 

「上からの指示を淡々とこなすことだけが求められているから、提案なんてしたら集団を乱す因子だと思われる」

 

 

私は心底底辺でよかったと思った。提案自体がご法度ではちょっとやっていられない*2。というのはまぁ冗談半分だが、意見をいうのもアレらしいと聞いたときには流石に首を捻った。

ちぎれない程度に首を捻ったあと、私はやれやれとコーヒーを奢ることにした。

 

そいじゃまた

*1:私の能力的には低いおちんぎんで十分だと思っている。

*2:とは言っても、私はそんなに提案するわけでもアイデアマンでもないので、そんな心配は必要ないのだが

やりがいで搾取されるからやりがいも枯渇していく。

「毎日ずっといるんですか?」

担当事業のときに出ずっぱりだった期間、そう尋ねられた。

「時期によりますけどねー、今は時給換算はしたくないですねー」

と答えたら、その場にいた別の方に

「時給換算はしてはだめ」

と諭されてしまった。

 

 

下の2つを読んで下書きを掘り起こしてきた。

 

あんま無理せず金貯めてる人や仕事が楽しい人は、『「脱社畜」の人が言ってることは分かるけど、そんなに強く言う必要ないんじゃない?』と思うのはよく分かる。 

あれくらい歯切れよく書かれていれば、日頃労働に関することで鬱憤がたまっている人は、読んで溜飲を下げられるからきっと気持ちがいいのだろう。

歯切れよく書くには敢えて零さないといけないものもあるし、しょうがないんじゃないですかね。

 

 

冒頭の続きだが、

「どのくらいいるんですか?」

というのは、休憩時間とかなんやらときに話の種としてしばしば聞かれる。働く対価の1つである稼ぎに関しては、ほとんどの人間が何とか暮らせるくらいというのはみんな何となく分かっている。そこで冒頭の時給換算的なことが口を滑る時がある。

 

単に稼ぎじゃなくて、仕事量なんかも考えると私よりもっともっとキツイ人はごろごろいる。私なんかは完全に時期によるし、やる気に左右されるのだ。

金のためじゃなくてなんで続けられるかって、やっぱり好きだから(何とかしたい)になってしまうのではないか。

上の私を諭してくださった方からは「割りがいい仕事はいいから面白い仕事を紹介してくれるようになってくれ!」と激励も頂いております。

 

 

そんなカッツカツの業界は人手を常に欲しています。

そらもう安くキッチリ仕事する人なんて天使か何かかと思いますけど、うちは必ず対価として賃金を支払うことを基本としております。(当たり前!ってかなんだよ源泉徴収10.21%とかいう端数万歳復興税は!)

 

 

当たり前と記入したのは、美術とかアートだとかはボランティア募集とかがよくあるからです。インターンも重要な戦力(労働力)です。

 

そういうボランティアへの対価は、現場を見て学べる、参加できるということでしかありません。そこから参加回数での特典や関わっているという優越感のような感覚もあるでしょう。

やり抜く人は登録者の一握りしかいないのが現状です。

大きいイベントに関してはボランティアなしだと運営がキツイし、一度でも触れてみて欲しいという観点ならば、こういう関わり方を提示することは悪くないと思います。

 

 

彼らも文化を担っていることに間違いありませんが、業界的には継続的な人材がとてもとても重要なのです。

だから、そのときにこれで生活できるという形を提示することが必要なのです。彼らやそれ以外も、もっと深く関わりたいと思ったときの受け皿はどこになるのか。

「ないんだな、これが」ではダメなんですね。

 

 

それでも、たとえ受け皿があってお金が出てもひどいアリサマーになってしまう現実もある。それに、好きでも洛なことだけじゃないし、割りに合わなければ特に心身ともに消耗していくので、頑張るけど何を頑張るのか何にやりがいを感じているのか分からなくなってしまい、やめていく人も少なくないという現実もある。

 

 

クソみたいな環境でも恵まれた環境でもクソは出る。必ず出る。

 

 

 

では、そこで自分は何に責任を持っているんだ。何をやろうとするんだ。

 

引きずられ過ぎたくはないけど、そのものを大切に思うきもちやそこから養われる責任感は少なくとも持ってないと、やっぱりどうしようもないと思うのよね。

それは組織による雇用者側による搾取とかいう単純な図式・矮小な問題に収まることはないだろうし。まず自分、そして組織、業界へと手の届くところから少しずつ広げていく。

どうしたってこぼしてしまうものはある。その中で何を選ぶのか。手の届く範囲しか出来ないのだから。

 

と言うのも、ゲージツ界隈はこころが壊れる人が少なくないのも分かっていて、結局は堂々巡りになってしまうから。

あと、(サクラハッピーじゃない方の)イノベーションとか言う人たちや斜め上から見たくてたまらない人たちにボコボコにされるから「やる気の問題ですよ!」とか言えない。それに本当に辛い人に見えるところで言いたくはない。

ちなみに、サクラハッピーの方のイノベーションとか言う人たちにはナデナデされたい。

 

 

それでも、私はやっぱり好きとかやりがいとかそういうのって大切だと思う。

ただし、それにありつける恵まれたやつなんてそういないし、組織が大きくなればそれだけ色々な人間がいるので、やりたい事とやるべき事が一致して聞こえる世界の声もバラバラであることだけは理解しているので、先の2つのブログで言ってることの共通点である『おしつけがましいのはちょっと……』というのは守りたいと思っている。

 

 

何とかならんかね、金くれ。

でも金だけじゃ動かんよ。

 

そいじゃまた。

自分が知っていることは相手は知らない

よくある。

慣れきってくると本当にやばい。事故一歩手前までいく。

 

施設にはいろいろな人が来る。利用者も初めての方、稀な方、時々の方、よく来る方と。そして、施設職員。

職員も含めてしまうので当然っちゃ当然ですが、上に挙げた中では後者ほどその施設についてよく知っている。職員に関してはもちろん部署ごとに専門が異なるし、職員の入れ替わりもあるので一概には言えないこともありますが、これを前提として進めていきます。

で、私は諸々からっきしの施設職員の立場なので、そのあたりも前提に入れて読んで頂ければと思います。

 

利用者とはどういった利用をするか・どのように情報を出すかということについてやり取りや打ち合わせを行っていくわけですが、慣れているとついつい「(利用案内渡してるし/公演慣れてるみたいだし/ここ何回も使ってるし)これくらいわかってるよね」とか、「(僕らにとっては)いつものことだから」という甘い認識が生まれてくる。

で、それに加えて利用者が「おれたちは慣れてるぜ」みたいな認識を持ってると非常にヤバイ。

いざ本番(仕込みとかも含めて)となると「違うじゃん」とかトラブルで必要以上にテンパるみたいなことになる。

これはあっちゃいけない。

 

「これくらいわかってるよね」とか「いつものことだから」というのは確かにあるものの、場所が変われば全部変わるし、いつも同じなんてことはありえない。

 

愚者は経験に学ぶ。愚かな私はそういうミスを繰り返し経験して「少なくとも何を忘れずに伝えなくちゃいけないのか」を覚えていくわけです。

そこに「○○だから××」とかいうパターンが増えていくのです。 

 

私が健忘症疑惑なのはおいといても、「マニュアル・チェック表」があれば事足りるという問題ではないのではないか。

というのも結局、形骸化していってしまうことが少なくないからだ。ちょいちょいとチェック入れてくだけで、重要な「実際どうするか」というところが抜け落ちていく。

「チェックしました」「kwsk」「……」「oh」

 

 

利用者側に話は移りますが、利用案内とか説明書みたいなもんで熟読する人はそんなにいないわけです。慣れろなので私も詳しく読みません。

その中で「利用料金」「設備」とか「開館時間」「退館時間」くらいまでの、間違いなく必要なその辺りはおさえてもらえますが、そこ以外にも禁止事項とか施設ごとに異なってるんですよね。

「どこどこでは出来た/やってもらった」とか「いいじゃない」とか言われてもダメなんですね。

この辺りはジジババたちの圧倒的パワーにたじろぐことはよくあります。

 

じゃあどうするのと。

それは簡単なことで、確認しやすいものがある上でコミュニケーションを取るとかフォローするとか、必ずもう一段階の確認をやることです。

ダブルチェックは普通のことだよ!やったねたえちゃん!

 

効率のいいシステムを作ることは出来ても、対人間をせざるを得ない場所だから、結局そこにいる人次第になってしまうんですね。

まずそのシステム作りが大変なのですが。

 

 

余談だけど、コミュニケーションとるのが苦手な人間にはここが原因な人もいる気がしてもいる。

自分が分かってることをいちいち伝えるのを面倒に感じるとかね。そんな頭の中のこと、伝わりませんからね。

おかげさまで今日も順調にやらかしてます。 

 

 

もひとつ余談だけど、こういうことに限らず「こんなことも知らないとか情弱乙。俺TUEEEEEEE!!!!!!!」みたいな人は悔い改めて下さいよろしくオナシャス。

 

そいじゃまた。

ここで何がしたいのか。

「なりたいからこの職業になった」なんて幸せな人間は多く無いと感じるのは、みなさんが帰宅するなり「死にたい」などとPOSTするせいか。

 

私はどうしたら食べていけるかと何がしたいかが幸運にも一致したとこに拾われて、幸運にもその後めでたい運びとなった。

でも専門的な教育を受けてきたわけではないから、続けるために必要だろうなということには時間を作って費やした。

職場では指導っぽい指導は受けなかったけれど、フォローはたくさんしてもらった。それで上司の休みは何回も潰した。

もともと少人数だしあまりに初歩的なことで迷惑かけたくない気持ちは強かった。

仕事する姿を見て、一緒にやって、分からないことがあったら調べて、実践する機会を作った。

それである程度のことは任されるようにはなってきたとは感じている。

それでも仕事する上での知識は全然足りていないし、上司の負担が大幅に減ったわけでもない。

 

 

そうやってズルズルやんズルズルやんで長く在籍すれば、そこでの経験は増えるので、そこではマシな方になるのかもしれない。

そのときに私は"出来る"人間、色々と促せるような人間になっていないとまずい。

 

 

職場は私が入って少し経ったときに新陳代謝が良くなり、そういった出来る人間が一気に減ってしまった。

つまり出来る人材が増えないとまずい状況である。そのためには新たに即戦力を雇うのと現在の職員育成と2つの方法があるが、人数を増やせるところではないので予算的に後者しかない。

後者ならばなおかつ継続的な人材が望ましい。 

 

 

そういった時、出来ない・慣れてない人に対して「自分は出来るように自分でやったからお前もやれ」ということはそれぞれ状況・目的・目標が違うし、言うべきではないと思っている。

 と同時に、この職業は待機時間が長い日もあるのだから、何か担当しているものがないのならば、やっぱり最低限必要な知識を持つための努力は自分でするべきだとも思っている。

 

フリーやほぼボランティアで他に仕事を請け負っている人間も多いこの業界、その空き時間はそちらに回されていることも多い。

この辺りは経験も積めるし何より薄給なので如何ともし難いが、日常業務だけは確実に行うのは前提だと思う。

 

 

自分のことを優先することを間違っているとは思わないが(私も滅多なことがなければ休みは休みで満喫する)、 「分からないことは分かっていそうな人に聞いてしのげばいい」という状況が常にあるとしたら放置はできない。

ミスることなどはどうでもいいのだが、誰かにしわ寄せがいき続けるので非常によろしくない。

 

 

 じゃあどうするよ、と。

システムとしてガチガチにすると逃げ場がなくなるので、辛抱強くうまく促すのが望ましいのか。

私は「責任ある立場で何も出来ないのは情けない」がモチベだったから、それに対するモチベアップ の方法がよくわからない。

だが、うちは誰であろうと出された意見は積極的に採用されるので、その中で上手くノセられた所も大いにあるとは思う。

 

最初から同じ目的の人を採用すればよいということもあるが、うちは長居するような環境ではないので、それでFAにならない難しい状況もあるのは事実だ。

足掛けだったり、経験をするということでは悪くない場所だと思うし、個人ならばそれでよいと思う。

 

 

最終的な目的として作家が発表する環境を良くしていきたい、というところは一致しているが、その方法が様々ということ。

様々だからこそ強みもあるが、一部の仕事で「でもそれやりたいわけじゃないし」というところが出てしまうとよろしくない方向に進んでいってしまう。

 

ただ1つFAなのは、私が今から心配することでもないということだろう。

 

とりま簡易なマニュアルを新調したが、有効活用されてないのでせっせと見て楽しい読んで楽しいものに改良をしないと。

 

 

私のボスがくれた初めての担当事業

それは○○○○で私は2年目でした

その事業は楽しくてホットで

こんな素晴らしい事業を任される私は

きっと成長したのだと感じました

今では私も新人ではない(ただし部下もいない)

みんなに手伝ってのはもちろん私の事業

なぜならみんなもまた頼りになる存在だからです

 

 

そいじゃまた。

ミス・やらかしと懐の深い上司

私ほどミスが多くダメな人間もいないんじゃないかというくらいにはやらかしが多い。

知識不足・確認不足に集約されるそれは、時に惨状を引き起こす。

そういったときの上司の対応はけっこう頭の中に残るものです。

 

うちはずっと「任せると言ったら任せる」という姿勢なので、ミスしようが降ろされることはない。挽回するチャンスが必ずあるので、モチベもあるし、鍛えられるところはかなりある。もちろん、その後はサポート体制がやや厚くなりますが。

 

育てられている実感はあるにしても、育てるともなく育っていく、自分で出来るようになったという実感を湧かせてくれる。

これが、出来てしまうために自らやってしまう方や具体的な指示しか出さない方の下だったら、今はもっとひどい状況だったと思う。

 

 

私も非常に経験が浅い身でありながら、後から入って来た方がいるしたとえ数回限りでも指示を出す立場になることがあるから、すごく悩む。

わりとほっとけーという感じなのだが、ヘルプコールはしばしばあるし、自分でやっちまうことも多い。

でも、そういうトラブルがあったときには、状況把握・原因特定・対処方法を必ず確認し合うようにしている。

 

 

それとは別にミスに対する責任の負い方が非常に大切だと思っている。その負い方は状況もあるが、立場によるところが大きいので、うまく出来なかった人がポジティブに「次やれるようになろう」と思ってくれるような、そういうことをしたい。

 

現状、そういう仕事内容に関してはかなり恵まれているので精進したいですね。

 

そいじゃまた。

イベント中止とか(黒バス騒動とコミケの見て)

切腹しましょう。

 

と、普通なら言いたいのですが、状況が状況で大変なことになっている。

黒バス脅迫状とかで騒ぎになっているこの頃、実際にモノが扱われている事件が事前に起こったこともあるので、これは致し方なしかと思う。

主催者、そして認めた側はいろいろなことを想定して、お客様が安全に過ごせるよう考えるものだけれど、必ず想定外のことが起こる。想定内でも防ぎきれないこともある。

ちゃんとやれふざけんなと言われても、場を使う人の協力もなければその場の安全は確保しきれないのだ。*1これは普通のことでしょう。だから「ご理解ください」「ご協力賜りたい」ってことになるんでしょ。

そういったことを公表するリリースの言葉尻に噛み付いても仕方がない。それに表現の自由とかは違う問題に見える。

 

 

震災の時の話になってしまうので状況は異なるが、私は某ホールで対応していた。即刻中断のお願い、アナウンス、避難誘導、安全点検とかとか。

それでもイベント主催者から出てきたのは「こっちは金払って使ってるんだぞ!中止とかふざけるな!」という言葉。

でもダメなのだ。安全の責任は会場も負っているのだ。「怪我や事故があってからでは遅い」「何かあってからでは遅い」これに尽きる。

このときは揺れが収まるとすぐ再開しようとするし、けっこうきつかった。イベント参加者に労われる始末だった。

ただ、この状況は何か1つのものだけが排除(という言い方は語弊があるが)されるものではなかったので、不公平な印象が無かったのは幸いだったかもしれない。

 

 

そして、その会場の責任だが、会場によってはそのイベントだけではなく他にも多くのイベントが行われる場所であることもある。同日であれば別のイベントに参加するお客様への影響もある。「危なくても開催する会場」というのは屈しないという賞賛を得ると同時に信用を失う。信用を失えば今後は立ち行かなくなることだってある。

 

表沙汰になった事件を行った人間が会場内に入るという事態だって本当なら避けたいはずだ。今まで脅迫とかそういった類のことを経験してるかどうかは私は準備会の中の人ではないので知らないが(大きいとこで同様のことを何も経験してないとは考えにくいが)、今回は既に事件が起こっているのだ。

それにゴーサインを出せるか。無理筋もいいとこだろう。

 

 

それでも、主催側だってそれに向けて準備してきたのだし、そう簡単に引き下がりたくはない。

ただ、その結果で本来ならば抑えられた多くの作家たちの資金が削られたとすれば残念なことだとは思います。が、これに関しては参加者に対してどういう経過報告を行っていたのかなど知らないので、私には判断出来ません。

心苦しさはあるでしょうし、穴埋めは考えてるでしょうけど。

 

 

利用者が無事に過ごせるよう、最大限の努力をしている多くの人たちがいます。していない人もいます。

通り魔的な怖さはいつもあるし、こういうことが起こるのは悲しいことです。本当に終わるといいです。

イベントが潰れるのは、誰だって本当に辛いものですものね。そいじゃまた。

*1:野外イベントとかは設営にもっとゆったりスケジュール組んでもいいと思う。日中ガンガン出来ることばかりではないし、時間が必要な分お金やばいことになるだろうけど。